フリーペーパーどろんこのことを先日ブログで紹介しましたが(→BLOG)。その記念号の中で紹介されていた詩にすっごく心揺さぶられ。
3分もあれば読み終えてしまえる短い文章なのに、ひどく心を打たれ、涙ぐみそうになりました。
こんなに分かりやすい言葉で、こんなにも胸にグッと迫る文章が書けるものなのだと。
この詩に会えて心底よかったと思うと同時に子育てをする人たち、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思い、その日のうちに、どろんこメンバーの人に問い合わせ、三砂先生にも掲載許可をもらい、ブログで紹介させてもらえることになりました。
というわけで、どうぞ。
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『子どもを抱く喜びにひたって欲しい』三砂ちづる
今あなたはとても忙しいと思う。
慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され
やってもやってもやるべきことが終わらない
家の中のあれこれにため息をつき、
まして外で仕事のひとつもしていれば、
なんで私だけがこんなにがんばらなきゃいけないのよと、
腹のひとつもたち、
穏やかにぐっすり眠ってとろとろと夢を見る、
ということ自体が、
どこか遠い世界のように思うのかも知れない。
おむつもかえなきゃいけないし、
おっぱいもあげなきゃいけないし、
ちょっと大きくなったら
「ママおしっこ」と起きてくるし。
ああ、わたしは毎日忙しい。
ゆっくり夢をみること自体が「夢」
ゆっくり眠りたいだけ眠った、
なんていつのことだったかしら。
残念なことに、
というか幸いなことに、
というか、時間というものはゆくりなく過ぎ、
いま、あなたがやっていることはあと数年と続かない。
彼らは学校に行くようになり、
あなたの知らないところで
あなたの知らないことをする時間が増え、
あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。
そうすると朝早くから起きて弁当のひとつも作り、
子どもの外のおつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。
つまりはフェイズが移る。
私はもう50を過ぎている。
2人いる子どもは青年になり、
文字通り毎日どこで何をしているのやら。
見上げる青年になって、
私の知らない彼らの日常はまぶしい。
この人たちはもう私の「手の内」では生きていないのだ。
ときおり私は夢をみる、
夢の中には子ども達2人がよく出てくる。
その彼らは、けっして今のような「男に育った」彼らではない。
夢に出てくるのは幼い彼らだ。
お話ができて、
自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。
おそらくあと50年生きても、
夢の中の私の子どもは、
この大きさであるに違いない。
あのね、ママ、あのね、と、
とても高い声で私を見上げ、
「つまらないこと」をいちいち聞きに来たリ、
報告したりする息子たち。
私がしゃがまないと、
彼らの視線とは合わず、
抱きしめれば腕に足り、
抱き上げれば、そのまま移動できる重さ。
私の手の届くところにいる彼ら。
おかあさん、
今あなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいこと。
母として、
いちばんよい時期。
いちばん印象に残る時期。
あなたの子どもはいつもその大きさで、
あなたの夢の中で位置を占め続ける。
あなたが人生でつらいことがあった時、
あなたの子どもたちは、
そのような大きさであなたの夢の中に現れる。
それが現実と交錯する今こそが、
あなたの幸いでなくてなんであろうか。
涙ぐむようにして、
幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。
それはひとときの至福であり、
長き人生のうちで一瞬にして失われる、
人生の最も美しい時間だからである。
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三砂ちづる著『五感を育てる おむつなし育児』(2013年 主婦の友) より
※三砂ちづるさんの掲載許可を得ています。
この詩を読んだ後、すぐ夫にも読んでもらったけど、思ったような反応はもらえず。
私、なんかもう何なら生きててよかったなって思えるくらいすっごく感動したのだけど!!
この詩にあるように、私、子どもが大きくなっても
絶対小さな頃のままの子どもたちを夢に見ると思う。
そして今まさに「手の内」にいる子どもたちと過ごしているわけで
真夜中に起きだして遊びだす娘とか (↓)
なんかもうしんどいことだらけだけど、絶対あとで振り返ったら、 すごく良かったなって思えるときにいるのだと思う。 詩を読んだら、そんな自分が手に取るように見えた気がして、胸がキュウウと締め付けられたのでした。
スリングに入れられるのも今のうちだなーと思って撮った写真。