書くことを仕事にしたい人のためのライター塾
「書くを仕事に!京都ライター塾」を主宰する
フリーライター歴14年の江角悠子です。
ライターになりたいと思っている人の中には、自分らしい文章を書きたいと思う人も多いのではないでしょうか。
魅力溢れる、その人らしい文章を読むと憧れますし、そんな文章が書けたらいいなと私も思っていました。
でも、商業ライターとして、原稿を書くようになって気が付いたことは、私らしい文章は必要ないということでした。
企業や編集プロダクションから依頼されて書く原稿のほとんどは、誰が書いているのか読み手は気にしていません。
顔を出して記事を書く人気WEBライターとは違って、裏方として記事を書くような商業ライターの原稿に、個性は求められないのです。
新聞を読むとき、これは誰が書いているのか、特に気にせず読むのと同じで、例えば私がライターになりたての頃によくお仕事をさせてもらっていた京都のガイドブックでも、誰が書いたかなんて、読者は気にせず読んでいたと思います。
私らしい文章を書きたい。
そう思ってライターになった私は、ライターとして働くようになってしばらく経ったときに、この事実を理解しました(気付くの遅い)。そして、ショックを受けたのですが、「黒子に徹する」「職人として原稿を書く」そう割り切って仕事をしていた時期があります。
ですが、あるとき気が付いたのは、どんな文章にも書いた人の個性はすでに表れている、ということです。
書くこと&書かないことを決める編集作業や使う単語にも。文章の端々に、その人らしい視点や表現はどうしても入り込んでしまう。
以前、友人とある飲食店へ取材に行って、それぞれが原稿を書いたことがあります。私は食材のこだわりや味つけなどに注目。一方、友人は料理の盛り付けやその彩り、空間の美しさについて書いてある文章が多かったのです。
同じお店に取材に来たのに、着目する視点がこんなにも違っている。そして注目する箇所が違えば、書く内容も変わり、おのずとそこに個性がでてきます。
ざっくりとした例えになりますが、ある料理を「うまい!」と書くのか、「おいしい!」と書くのか。この単語の違いだけでも書いている人の人柄が透けて見えるのです。
自分らしい文章を書こうと意識せずとも、どんな文章にも自分らしさがにじみ出てしまっている。
このことに気が付いたとき、「自分らしい文章を書こう」だなんて肩ひじ張らなくてもいいんだなとふっと力が抜けたような気がします。
だからこそ、商業ライターとして文章を書く際には第三者として、客観的に書く技術が必要なんだなということも改めて感じました。
自分らしい文章が書けなくて、もどかしく思っている方もいるかもしれません。でも使う言葉、何を書くかですでにあなたの個性は表れています。
なので、肩の力をぬいていつもどおり書く。
自分らしい文章を書きたいのなら、それだけで良いんじゃないかなと思うのです。