(もしかして)取材した内容、記事にそのまんま書いてませんか?
インタビュー原稿を読んでいて、たまにこう思うことがある。「これ、テープ起こしに句読点つけただけじゃない?」
質問があって、回答があって、また質問があって回答があって……。相手が話した順番のまま、話した分量のまま、全部が載っている。もちろん取材はきちんとしているし、話の中身も悪くない……なのに、こういう記事は、読んでいて全然面白くない。
これ、実は結構よくある落とし穴だなと思う。
なぜ「そのまんま」だとダメなのか?
理由はシンプルで、取材と記事は別物だから。取材は「情報を集める工程」。記事は「読者に何かを伝える工程」。この2つは似ているようで、やることが全然違う。
取材では、聞けることは全部聞いておいたほうがいい。脱線した話、細かすぎる話、後で使うかどうか分からない話——全部拾っておく。でも記事にするときは、その真逆をやる必要がある。記事で伝えたいテーマに沿って、聞いた話の6~7割くらいは削る。これができて初めて記事になるし、物語になる。「そのまんま書く」というのは、この「削る」工程をサボってしまっていることになる。インタビュー記事は議事録じゃないんだから、全てを網羅する必要はない。
聞いた話をそのまんま並べると、だいたいこういう症状が出る。
① 情報の重み付けがゼロになる
たとえば、ある人が「大きな挫折」について語った直後に、「愛用しているノート」の話をしても、文章の上ではどちらも同じ扱いになってしまう。読者からすると、どっちが大事な話なのか分からなくなってしまう。本当は前者に3倍くらいのボリュームを割くべきかもしれないのに、聞いた順番のまま同じ分量で書いてしまうと、同じ扱い(重さ)になる。
② 一番おいしい部分が埋もれる
インタビューをしていると大抵、1つか2つ「これが記事の核だな」という分かるエピソードや言葉がある(というか、そういうエピソードが見つかるまでインタビューをする)。
誰かの一言で人生が変わった話、大きな失敗から立ち直った話など。そういう場面は、本来なら見出しにしたり、冒頭に持ってきたり、ボリュームを割いて目立たせたりする。でも「そのまんま書く」と、他の細かい話に埋もれて素通りされてしまう。
③ 「まとめ」が要約の繰り返しになる
記事の最後に書き手のまとめを入れることはよくあるけれど、そのまんま書いている原稿のまとめは、たいてい本文の内容をもう一度言っているだけ。新しい視点も、書き手なりの解釈も入っていない。これでは、ライターが書いている意味がない。ただの要約なら、AIがうまく、かつ速くやってくれる。
④ 分量だけが増える
聞いた言葉をそのまんま書く、素材を全部使おうとするから、記事が無駄に長くなったり、何回にも分割されたりする。そうなると結局、何が言いたかったの?と何の記憶にも残らない記事になる。
そのまんま書かれている原稿は、だいたいこんな感じに仕上っていて、山場がないし、起承転結もない。とても平坦である。これでは心に残らないし、面白くもない。
じゃあ、そのまんま書かずに、どう書けばいいのか?
「聞いた言葉をそのまんま」書かないために、ライターは何をすべきか。いくつかコツがある。
記事の「核」を数える
取材で集めてきた素材を全部確認して、まず「この話の核は何個あるか」を数えてみる。仕事の場合、依頼されたテーマやトータル文字数によっていろいろ変わってくるけれど、たとえばざっくりと3,000字程度のインタビュー記事なら、だいたい3〜4個程度に収めたい。それ以外は基本的に補足情報だと思っていい。
時系列を捨てる勇気を持つ
聞いた順番と、書く順番は一致させなくてもいい。一番刺さるエピソードを冒頭に持ってきて、そこから話を広げる、という構成でもいいし、盛り上がりそうな中盤に持ってきてもいい。時系列は「取材メモの都合」であって、「読者にとって読みやすい順番」ではない。物語を一番面白く、楽しく読みすすめてもらうために、ベストな順番に入れ替えて書く。
読者の目的から逆算する
そもそも原稿を書く前に(いや、インタビューををする前に)「この記事を読んだ人にどうなってほしいか」を決めておく。興味を持ってほしいのか、信頼してほしいのか、行動してほしいのか。その目的に合わない情報は、どんなに面白い話でも思い切って削る。「伝えたいこと」以外のエピソードはすべて蛇足。
書き手の視点を足す
聞いた話をただ並べるだけでなく、「これはつまりこういうことだ」という解釈や整理を、書き手として添える。これがあるかないかで、記事としての価値がまったく変わってくるし、ここを読めるのが、記事の醍醐味だと思う。ここがないなら、テープ起こしや、AIの要約と変わらない。
最後に
取材メモをそのままキレイに並べるだけなら、それは記事ではなく資料だ。何を選び、何を捨て、どう並べるか——どうやって物語に仕立てるか、そこに書き手の腕が試される。
「聞いたことを、聞いた通りに書く」のは、ライティングの入り口にすら立てていないのではないかと思う。
京都ライター塾では、実際の素材を使って「そのまま書いた原稿」ではない、「編集した原稿」を見てもらう。インタビュー動画を見て、編集後の原稿を読んだ受講生は、「言ったことを、ここまで書き換えていいんですね?」と驚くほどだけど、むしろ、そこまで書き足したり、書き換えたりしないと、本当に伝えたいメッセージは受け取ってもらえないと私は思っている。
AIが整った文章を書ける時代だからこそ
この1年くらいで「素材を整形して、それらしく並べる」という作業は、もうAIでもかなりの精度でできるようになったなと感じている。
だからこそ、これからの時代に「ライター」と名乗るなら、AIにはできない部分をどれだけやれるかが問われる時代になってきているなぁと思う。
・何を核にするか決める判断
・何を捨てるかを選ぶ責任
・素材から見えてくる独自の解釈や視点を足す仕事
・「これを届けたい」という情熱
情報を右から左に流すだけなら、機械に任せればいい。人間がライターを名乗る意味は、そこではなく、判断することにある。
これはインタビュー記事を書くときだけではなく、エッセイを書くときも同じで。エッセイの場合、そのまんま書くと、どうなるかと言うと
・思ったことを思った順に全部書く → 読んでいる側は「結局何が言いたいの?」となる
・些細な出来事と人生を変えた出来事が同じ熱量で語られる → 重みの差がつかず、印象に残らない
・オチや発見がない → ただの日記になる。日記と読ませるエッセイの境目は、まさに「何を伝えたいかを決めているかどうか」
インタビューは「他人の素材」を編集する仕事で、エッセイは「自分の体験」を編集する仕事。素材が自分の中にあるか、外にあるかの違いだけで、やっていることはほぼ同じ。
体験をそのまま垂れ流すのは日記。何を核にして、何を削り、何を伝えたいかを決めるのがエッセイ。書き手が確固たる意図を持って書かないと、インタビュー記事もエッセイも伝わらない。
というわけで、「エッセイスト体験講座」では、日記ではない、エッセイをとは何か?について触れてもらいます。
\ただいま参加者募集中!/

日時
2026年9月2日(水)
12:00〜17:00(予定)
会場
京都・恵文社に併設されているイベントスペース「コテージ」
参加費
35,000円(税込)
講座に含まれるもの
・人生企画ノート(事前郵送)
・8月1日〜9月30日の参加者限定コミュニティ
・9月2日 恵文社での5時間講座

