昨日は、「遺された兄弟姉妹ためのグリーフケア」の講演を聞きに、
キャンパスプラザ京都へ。心配していた雪も降らず、でも極寒の中、夫と共に会場へ。
この手の講演は、普段は忘れている妹の死を思い出すからしんどいのだけど、
悲しみと向き合い浄化していくためには、必ず向き合うことが必要で。
妹が死んで16年も経つのにまだ向き合うとかどうとかいってんのって思われそうだけど、
昨日講演の中で上智大学の山本佳代子さんが言っていた、
「大事な人を亡くした悲しみは決してなくならない」という言葉に
何だか救われた気持ちになったのでした。
まだ悲しくてもいいんだなって、自分を肯定してもらえたような。
以前エッセイに書いたけど(→大切な人を亡くした人へ)、
妹が死んで1年経ったとき上司に
「まだ落ち込んでんのか!」と一喝されたときの衝撃がいまだにある。
1年経ったんだし、おまえにもはや悲しむ権利などない。と言われたような感じ。
兄弟姉妹を亡くしたことに関する文献は本当に少ないと体感としてあったのだけど、
山本先生も実際資料も少なくそういった研究も少ないと仰っていて
本当これはもっともっと研究が進んでほしいし、
世の中的にも認知されていってほしいなぁと思う。
講演内容を詳しくレポートしたいけど、レポートするには、
グッと深いところに落ちていかないと書けず、
そうすると日常生活に支障が出るほど落ち込んでしまうことが目に見えているので、
今は、蓋をして書けそうだなと思ったときにまたnoteにでもまとめたいなあと思いつつ。
午前中の講演のあとは、兄弟姉妹を亡くした遺族だけが集まる
小さな懇親会のようなものがありました。
いろいろな人の話を聞くにつれ、
この感情は私だけのものじゃないんだという安心感に包まれ、ホッとしました。
例えば、私は加害者に対して、のたうち回るほど苦しんでいてほしいと思うし、
いまだに飲酒運転する人に対しては、ものすごいドス黒い感情が渦巻いているし、
そういうの全部ひっくるめて、遺族なんだなと思ったり。
それにしても、子どもだった遺族が、子を亡くし半狂乱の親と共に暮らして
よくグレもせず、自殺もせず、ここまで成長してくれたなぁと感動すらしたのでした。
当時の母親を思い出すと、なぜか山姥(やまんば)とイメージが重なる。
髪の毛振り乱して訳わかんない人間ではないもの。
今、母親が落ち着いた(ように見える)から言えるけれども。