泉谷 閑示さん著『「普通」がいいという病〜「自分を取りもどす」10講』という本を読んだのでご紹介。
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自己肯定感について考えたとき、友人が貸してくれた本。
私のほしかった答えが網羅されているのではないかというくらい、ほしかった言葉が書いてあったので、覚えておきたいところをメモ。
自己否定の起源
私は自分が自己肯定感が低いなと気が付いてから、どうして低いのか、自己肯定感は上げられるのか、いろんな本を読みあさってみた(その過程、考察はnote「京都くらしの編集室」につづっています)
なぜ自己肯定感が低いのか、まさにその理由が本に書かれていた。
幼い子どもにとって、親は絶対的存在です。ですから、ほぼ神に等しい存在です。子どもからすれば、神である親が自分に向けてしてくることに、間違いや気まぐれがあるはずはありません。
〜略〜
親が親自身の感情の不安定さから子どもに当たったり、冷たく扱ったりしたとしましょう。すると、子どもは神に制裁を受けたのですから、何か自分が悪いことをしたに違いないと考えます。しかし、いくら自分のやったことを振り返ってみても何も思い当たることがないので、混乱する。そういうことが繰り返されているうちに、子どもは子どもなりに精いっぱい考えて、ある理由を思いつきます。
それは「自分が生まれてきたこと自体が悪いことなのだ」というものです。これが自己否定の起源です。
これか…。
昨年の4月から臨床心理士のカウンセリングを受けるようになってから、気が付いたのだけど。私もまさにこれで、自己肯定感が低いうんぬんという話ではなく、自己否定してたのか!と気が付いた。
私はことあるごとに父親にビンタされながら育ったので、まぁ、そうなるよね。「なんでわたし生まれてきたんだろう」って、小学生の頃からよく考えていた。暴力を振るう親でも悲しいかな、神のような存在なのだ、子どもにとっては。
その時の気付きはnoteにも書いた。
私は物心ついたときから、ずっと心の底で「死にたい」と思い続けていたのだけど、その理由が40歳過ぎてようやく分かったのでした。分かって、むしろほっとした。
今はこの本が気になっている。
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愛と欲望は違う
愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。
欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。
よく親が子どものために良かれと思って、勉強することを強要したり、習い事に通わせたりするけれど、それはときに「愛」と「欲望」の区別がついていない場合があるとも書いてあった。
もしそれが「愛」であるならば、子どもの子どもらしい進路選択は親は喜ぶべきはずだし、親から独立することもうれしいはずなのに、「欲望」の場合は、子どもを親の希望するような進路に進ませたいし、いつまでも自分のそばにいてほしいということになる。
しかもそれが、きまって「あなたのためを思って」という大義名分のもと行われる。ただ自分の思い通りに子どもをコントロールしたいだけなのに。それは愛ではなく、単なる自分の欲望であるということ。
「愛」のためにできること
「愛」のために私たちが出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。
今まで私は、自分さえ我慢してその場が丸く収まるなら、何の迷いもなく自分が我慢することを選んできたけれど、本当に大切なことは、そういうことではない。
まず自分を尊重して、満たすことが出来ないと愛は生まれない。欲望を滅却して初めて「愛」がうまれるのではなく、むしろ、自分の中にある「欲望」に正直に向き合うことによって、「愛」が生まれてくる可能性が開けてくるのではないか、と泉谷さんは言います。
わたしに足りなかったのはこれだな、と思う。
まずは自分を満たすこと。
私は自分を満たすことをしないで、他人を満たすことばかりに気を取られてきた。結果、いつまで経っても自分が満たされず、ずっーと不満を抱えている。不満を抱えた人が周りの人に優しくできるわけもない。自分でそうしているにも関わらず。表面上、自分では良かれと思ってやっているのかもしれないが、本心では全然満たされない。ただの偽善だ。
読み終わったあとは、まるで濃密なカウンセリングを受けたのかというくらい、いろいろな気付きのある本でした。
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